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#371 揚げの炊いたん

焼き揚げ


死後の存在を否定する考え方というのは、人類の長い歴史ではごくごく最近のもので、合理主義、経験主義が唱えられ、同時に近代科学が物質を基盤とした世界観を提示してからのことだ。

もちろんそれ以前のキリスト教的な来世イメージは、宗教色に偏ったお仕着せのあの世に過ぎなかった。だからキリスト教の来世信仰からひとびとを解放したともいえる。

神は死んだ。生命は物質を基盤に生まれ、そして死ぬ。それ以上のものはそこにはない。

ま、宗教的なあの世を信じるのは、個人の責任でやってもらいたい、というのが物質科学をヨリドコロとする現在の考え方だ。

そこにホコロビができたのは、何人かの精神科医の報告のおかげである。

エリザベス=キュープラー=ロスは、スイス生まれの米国の精神科医だが、死に臨むひとたちの観察から、肉体から離れた実在、死後の存在を主張し始めた。

それと同時期にやはり臨死体験をしたひとからの報告をもとに死後の存在にアプローチしたのが、レイモンド=ムーディである。エリザベスキュープラーロスは2004年に亡くなったが、レイモンド=ムーディは存命である。

ムーディは、最初の著書「かいま見た死後の世界」で、臨死体験者の体験談についての調査結果を発表した後、続く著書では、あの世の存在とのコミュニケーションをとるための「古くて新しい方法」について述べている。

この方法を使って、すでに亡くなっている近親者や友人と対話することができることを発見したのである。

古くて新しいあの世とのコンタクトの方法とは、「鏡」を使って人間の意識を、変性意識と呼ばれる状態に誘導することによって行われる。日頃われわれの意識は、この世に強く縛りつけられている。だから物質を基盤としない存在である死者を感知することはできない。

ところが、変性意識を誘導することで、あの世に意識を向けることができるのである。それは古代ギリシア、デルフォイの神殿で神託を受け取るために巫女が光る水盤を見つめることでトランス状態になったり、古代南米アンデスで神官が、光る湖面を見つめて神とコンタクトした方法に似ている。

だが亡くなったひととのコンタクトは、被験者の個人的体験であり、主観にすぎない。科学に必要な再現性や物質的な基盤がないために、それを「科学的」に実証することができないが、数千人の被験者を対象に調査を積み重ねてきた。

こんなふうにいわれても簡単には信じられないが、ワタクシ、「エリザベス=キュープラー=ロスとレイモンド=ムーディの言うことに偽りなし」を標榜しているので、信じざるを得ないのである。

最近、ムーディの新しい翻訳本がでた。これがまたおもしろいのである …


<以下次回>


*写真は、油揚げを醤油と出汁でさっと炊いたもの。大根おろしをのせて一味トウガラシを振る。こんなん好きやわ~。



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| あやしい話♪♪ | 09:41 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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#208 粕汁

粕汁


朝、出かけようとするとNHKの「この人にトキメキ!」という番組が始まった。

ゲストは、佐藤愛子である。もう80歳を超えているが、そうは見えない、背筋がピンと伸びている。元気そうである。

ついつい仕事にも行かずに見てしまった。まあ、うちの職場は遅刻ということがないのでこのへんは安心だ。

でもハナシは、最新作の小説の話、「血脈」は、小説家だった父佐藤紅緑の一族の話だ。若いころから、借金を背負い、作家として波乱万丈な人生を送ってきた話。いつまでも作家として活躍をしている理由など、当たり障りがないNHK的な話題に終始した。

佐藤愛子は、ユーモア小説、エッセイでよく知られているが、もうひとつ別の顔がある。

彼女は、長いこと霊的な現象に悩まされ、それを克服するのに大変な苦労をしてきたひとだ。

それについては、「私の遺言」に詳しい。

北海道に買った別荘での怪現象。成仏できずにいた佐藤家の先祖の霊、別荘を建てた場所に閉じ込められ、恨みつらみによって何百年も自縛霊として繋ぎ止められていたアイヌの未成仏霊たち。彼らを霊能力者に頼んでお払いをしてもらった話。

親身に相談に乗ってくれた美輪明宏やいつも頼りにしていた無名だったころの江原啓之との交流などが書かれている。

佐藤家にまつわる因縁。アイヌの酋長の娘だった前世の話。もうこれでもかというくらい、怪しいエピソードばかりである。ふつうのひとは読むのがイヤになるかもしれない。気味が悪い話でいっぱいだからだ。

でも怪現象にたちむかう凛とした佐藤愛子の態度や、すでに亡くなった遠藤周作の霊界からのメッセージには救われる思いがする。

世間はまだこうしたこの世界とはちがうもうひとつ別な世界を、おもしろがって取り上げる以外は、敢えて取り上げようとはしない。

似たような例には、エリザベス・キューブラー・ロスがいる。

ホスピスという言葉がなかった時代から、死に臨んだ人の心理について先駆的な仕事をしたスイス生まれの米国の精神科医だったひとだが(2003年没)、あるときから「死は存在しないこと」、「死んだあとも生命は存在し続ける」ことについて語りはじめた。

彼女の自伝を読むといかに彼女がむこうの世界といろいろな交流があったのかがわかる。

世間は、いまでも彼女の「臨死に関する仕事」は評価するが、彼女がいう「死後の生」についてはまったく触れないことが多い。

「生」を理解するためには、「死」をきちんと理解することが必要である。机上の哲学や思想ではなく、死後の生が「ある」のか、「ない」のか、もうひとつの世界を受け入れられるかどうかだ。

証拠などいくら求めても無駄なのだ。物質でない世界の存否をどうして物質を基盤とする科学の俎上で議論できようか。

彼女たちは、おそらく時代の先駆けなのだと思う。「見えない世界」を受け入れる素地をつくるために新しい時代の到来を告げるためにやってきたのだろう。

あと10年もしないうちに「死後の生」を疑わずに、こころ安らかにこの世を旅立っていく人がもっともっと増えるのではないだろうか。「見えない世界」を受け入れることによって、「なぜ僕らはこの世に生を受けたのか」、についても改めて問い直されるようになるのだと思う。



佐藤愛子 「私の遺言」 新潮文庫
エリザベス・キューブラー・ロス 「人生は廻る輪のように」 角川文庫


| あやしい話♪♪ | 01:16 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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#146 トマトとニンジンのサラダ

トマトとニンジンのサラダ


シンプルなドレッシングでトマトとニンジンのサラダをいただく。

ドレッシングはごくごくシンプルである。塩1つまみ、おろしニンニク少々、1/4のレモンを絞った汁、オリーブオイル、黒胡椒、乾燥バジルを加えたもの。ニンジンは薄く削いで、塩でもみ、少量のりんご酢で塩を洗い流したもの。

おいしい。つくづくシンプルはおいしいとおもう。トマトもニンジンもそれぞれ独特の甘みが旨みになっているので、ドレッシングに強い旨みを必要としない。これ以上旨みが強ければ、くどくなってしまうかもしれない。素材がよければ、手をかける必要もない。ありがとう、トマトくん、ニンジンさん(オトモダチなんである)。

今晩は、本棚から以前読んだ本を抜き出して拾い読み。

モンロー研究所のグループのひとりモーエンの「死後の世界の探訪報告」の4冊目の本だ。あちらの世界がどのようになっているのか、このたぐいの報告は、これまで何冊も書かれてきた。実際こちらの住人があちらに出向いての報告したもの、あちらの住人が連絡してきた情報をもとにしたものも多い。

学生時代、有名なスウェーデンボルグの著作に凝ったことがある。スウェーデンボルグは、18世紀当時超一流の科学者で技術者だったが、肉体から自由に抜けてあちらの世界に行くことができたらしく、50歳代のある時期を境に、霊界探訪記を次々発表した。これが、何冊もあるのだが、その翻訳は難解で、正直なにをいっているのかさっぱりわからないところも多かった(おそらくキリスト教の背景で表現されているからだが、当時異端とされた)。大学の図書館にはその殆どがそろっていた。

モーエンの報告は、18世紀のものとはちがって、ごく最近の報告である。ときにはチームを組んで情報の客観性を強調してはいるが、なにしろ視覚、聴覚といったこの世での感覚では捉えられない世界の話なので、なかなかピンと来ない部分も多い。しかもその世界は無限と呼べるほど広大で、いろいろな階層にわかれているらしいのだ。

そのなかに、この世の出来事がどのようにして起きるのかについて取り扱っている部署の話がでてくる。本の中では「計画センター」とよばれ、その担当官から説明を受けるところがある。

モーエンと共同探索者は担当官に、どうすれば事象ライン(この世での個人に関する出来事)を思い通りに引き寄せることができるかをたずねた。すると担当官はこう答えるのだ。

「どうしたいのかをできるだけ明確にしてわたしたちのところに望みを述べることだ(祈ったり、アファーメーションする)。私たちは、その望みができるだけかなうように他の出来事をあてはめていく。時には調整も必要になるかもしれないがね。一番いけないのは願いの実現を疑うことだ。自分の願いと一緒に疑いを感じていると、願いと一緒に疑いを実現させようとする意図も定めてしまうんだ」

なるほど。なるほど。実現のための努力も惜しんではいけないのは当然のことだが、実現の疑いをもつと、せっかく担当官が据えた事象ラインと矛盾した事象ラインができてしまうというわけらしい。

計画センターのほかにも「死者を受け入れるセンター」やら「地球の運命を決定する部署」があったりで、そうとうあちらの世界もおもしろそうなのだ。死ぬのが楽しみになってくるくらいに ... 。

| あやしい話♪♪ | 23:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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#129 菜の花と焼いたエリンギ粒マスタードソース

PS版菜の花エリンギ


ひとは朝起きて寝るまで、約2万回考えが浮かぶのだと聞いたことがある。

朝起きて、心の中でつぶやく。

「うーん、もうちょっと寝ていたいな」、「お、今日は晴れか」、「どれ、起きるか」 ...

こころは休むことなく次から次へ、「考え」を生み出している。

ある人がいうには、その「考え」のほとんどがじつは、ネガティブなものになりがちなのだという。

「まだ眠いのに、もう起きる時間か」、「起きたくないよう ... 、しょうがないなあもう」、「今日は木曜日か、あと一日働かなきゃなあ、いやになるなあ」、「きょうは雨か、ついてないな」...

こうした「こころ」が生み出す「考え」って、なんなのだろう。「こころ」から「考え」が休みなく生みだされる状態が、「自分」なのだろうか。

注意深く、この「こころ」のおしゃべりを聴いてみよう。外界から入るいろいろな情報について、「こころ」はつぎからつぎに「考え」を紡ぎだす。

「あ、電車いっちゃう」、「やだ、すごく混んでる」、「なにこのひと、変な匂いする」、「あ~あ、やな上司の顔、今日もみなくちゃいけないのか、憂鬱」、「もう、いや、我慢できない」

いつもではないが、極端にネガティブな「こころ」のおしゃべりに耳を傾け、それが自分だと思ってしまうと、気分は落ち着かず、すぐ不安になる。

「あのひと、私に悪意をもっているのかも ... 」

「こころ」はここぞとばかりに、人の悪口や憎しみを再生産しつづける。「きっとそうかも」、「そういえば、だれかから聞いたような気がする」

こんなふうになるのが、いやなら「こころ」のおしゃべりを聞かなければいい。

ところが、つい「こころ」のおしゃべりが自分自身だと考えると、「こころ」のおしゃべりと一体化してしまう。そして「こころ」が繰り返すネガティブな「考え」を自分の感情に重ねると、もうそれが、単なる「考え」だったのか、自分の感情なのか区別がつかなくなる。

「もう、会社なんかいきたくない」
「あいつだけは、絶対ゆるせない」
「いやだ、もう我慢できない」

これは「考え」に取り憑かれた状態だ。そうならないよう、ちょっとだけ自分の「こころ」に注意を払っておく必要がある。

しずかな部屋で、ゆったりとした姿勢で目を閉じる。静かな深い呼吸をする。外界からの音や光を遮断して、「こころ」がおしゃべりをやめるのを静かに待つ。「こころ」がおしゃべりをなかなかやめないなら、無理にだまらせようとしせず、おしゃべりから気をそらせばいい。

どんなにいらだっていたとしても、「こころ」のおしゃべりに耳をかたむけなければ、やがて気持ちは落ち着いて、だれかに守られているような安心感が押し寄せてくる。

たぶん、そんなふうにすることで本当の自分との対話が始まるんだと思う。


今日は、菜の花を蒸した。エリンギは餅焼き網で焼いて、手で縦に裂いた。
粒マスタード:大豆のマヨネーズを約 1:3 くらいで混ぜ、レモン汁を大さじ1加えてソースをのばす。醤油をほんのわずかたらしてもいい。これをかけ回していただく。

う~む、しみじみうまいでごわす。

| あやしい話♪♪ | 00:49 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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#118 マグロのかま焼き

まぐろ焼き

「他人が何を考えているのかを考えなくても、不幸せにはならないが、自分が何を考えているのか注意していないと必ず不幸になる」といったのはローマ帝国の五賢帝のひとりマルクス=アウレリウスだったと思う。

「24時間上機嫌」を座右の銘にしているワタクシだが、ときどきさすがのハイテンションもダウンすることがある。

仕事は、人間を相手にしているわけではないが、それだけに責任はほとんど自分にある。だが思うように結果が出ない、それも小さなことがちょっと積み上がると、「あれれ、ひょっとして、いま気分はおちこんでいるかな ... 」という状態になることがある。突然、すとんとテンションが落ちているのに気がつく。

だんだん落ち込むのではなく、突然エアポケットにつかまる。小さな失敗が積み重なると、自信をもって次の決断を下せなくなり、失速、落下する。

うまく結果がでないことが、想定内で、「これでうまくいかないということは、選択肢がひとつ消えたことになるのだから、慌てなくても大丈夫」というふうにいつもの安全弁が機能しなくなる。

仕事を同時に複数動かしているときには、とくに気をつけないといけない。複数の決断を自信をもってできないと、心はパニックになりやすい。

そんなときは、なるべくうまくいくもの、小さなことに集中して、結果をだして、自信をとりもどすことが大切だ。急がない、焦らない、他人(あるいは絶好調のときの自分)と今の自分を比べない。

心は小さく縮んで、硬くなり、呼吸も浅く速い。なにかしなければという衝動は突き上げてくるが、何をすべきかきめられない。

立ち止まる。目を閉じて、温かい光をイメージしながら、深い静かな呼吸をする。外界の事象は、なにものも自分の心を浸食することはない。自分の心、自分の気分は、自分が決める。静かにそう決める。

両手を一杯に広げて、大きな伸びをする。

身体を伸ばすと、心も不思議にのびやかになる。

| あやしい話♪♪ | 19:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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